前編では、東京都の最低賃金の改定をきっかけに、社員の経済的な豊かさを「外の物差し」と「過去の物差し」の二つで点検する考え方を整理しました。では、自社の賃金が世間一般の賃金上昇率に追いついていない場合や、賃上げをしても社員の納得感につながっていない場合、経営者は何を考えるべきでしょうか。後編では、賃金の問題を入口にして、会社の経営のどこに手を打つべきかを考えます。
賃上げが物価に追いつかないとき — 原資不足の背景を掘り下げる
同じ期間で比べて賃金の上昇率が物価上昇率を下回っている場合、ほかの条件が変わらなければ、賃金の購買力は低下します。社員の暮らしを支えるという点から、会社として見過ごせない課題です。そして、賃上げの原資が足りないのであれば、「払えない」で終わらせず、その背景を掘り下げる必要があります。原因によって、打つべき手はまったく異なるからです。
| 考えられる原因 | 点検の視点 |
|---|---|
| 原材料費などの上昇を価格に反映できていない | 取引先との価格交渉の状況、価格改定の根拠を示す資料の有無 |
| 自社の価値が顧客に伝わらず、価格競争に陥っている | 選ばれている理由を言葉にできているか、価格以外の強みを発信しているか |
| 業務の効率性が低い | 常態化した残業や、成果につながらない会議・手順が残っていないか |
| 市場の変化に対して、商品やサービスの見直しが遅れている | 主力の商品・サービスが、今の顧客の需要に合っているか |
このうち価格競争の問題は、以前「中小企業のブランド戦略 — 価格競争から抜け出す3つの問い」で、業務効率の問題は「『常態化した残業』を減らす制度設計」で取り上げました。賃金の問題は、人事労務の中だけで閉じた話ではありません。ブランドや業務の進め方の問題が、最終的に「社員に払える賃金」という形で表に出てきているのです。
利益は出ているのに、賃上げにつながっていないとき
一方で、利益は出ているのに賃上げにつながっていない、というケースもあります。この場合は、利益をどう配分するかという考え方や、評価・報酬制度そのものを点検する必要があるでしょう。将来への設備投資や、財務の安定を優先する判断は、経営として当然大切です。ただ、その判断が社員の処遇とどう両立するのかを、経営者自身が説明できる状態にしておきたいところです。「なぜ今年はこの賃上げ幅なのか」が伝わらないまま利益だけが積み上がっていけば、社員は会社の成長を自分とは関係のないものと感じ始めます。点検の手がかりの一つが、生み出した付加価値のうち、どれだけを人件費に振り向けているかという視点です。数年分を並べて、利益が伸びているのに人件費の割合だけが下がり続けていないかを確認してみてください。その割合に絶対的な正解はありませんが、推移を見ることで、配分の考え方が知らないうちに偏っていないかに気づくことができます。
もちろん、賃上げが小さいという事実だけで、会社の競争力が落ちたと断定することはできません。しかし、社員の暮らしや処遇への不満を入口にして、経営のどこに課題があるのかを確認することはできます。不満の声は、経営の点検を促すサインとして受け止めることができるのです。
購買力を守れている会社の次の課題 — 成長と暮らしをつなげて見せる
賃金の購買力を維持できている会社にとっての次の課題は、社員が「この会社で成長すれば、自分の暮らしも良くなる」と期待できる状態をつくることです。そのために必要なことは、大きく二つあります。
一つは、経営計画や決算の状況など、経営に関する情報を社員と共有し、会社の成長について共通の認識を持つことです。以前「俯瞰すれば、会社が変わります(上)」で、全社員がマクロとミクロの二つの視点を持つことの意味をお伝えしました。自分が何をして、会社がどういう状況になれば、その結果として給与がどの程度増えるのか。これを社員が具体的にイメージできることが重要です。会社の数字が見えなければ、社員は賃上げを「経営者の気分」としか受け取れません。すべての数字を細かく開示する必要はありません。年に一度、経営方針を説明する場を設け、「今期の粗利がこの水準に届けば、賞与や昇給にこれだけ反映できる」という関係を示すだけでも、社員にとって会社の成長は自分の暮らしと地続きのものになります。
もう一つは、給与制度として、何ができるようになれば、どのような役割を担えば賃金が上がるのかを明確にすることです。本人の努力、会社の評価、会社の成長、そしてその結果としての処遇。この四つが一本の線でつながって見えることが、「攻め」の賃金の土台になります。
新入社員の賃金を上げるとき、既存社員の納得感を忘れない
最低賃金や初任給相場の上昇を受けて、新入社員の賃金を引き上げる会社は少なくありません。このとき注意したいのが、既存社員との賃金差です。たとえば初任給を大きく引き上げた結果、入社3年目の社員との差がほとんどなくなってしまう、ということが起こりえます。
差が縮まること自体を、一律に問題とする必要はありません。しかし、技能や責任をどう評価しているのかが不明確なままでは、既存社員は「自分の3年間の貢献は、どう評価されているのか」と疑問を持つ可能性があります。採用に必要な賃金と、既存社員の納得感を保つ賃金。この二つを別々に決めるのではなく一緒に考え、賃金体系全体として整合性を持たせることが大切です。
具体的には、初任給を改定するタイミングで、初任給だけを動かすのではなく、等級や役割ごとの賃金の幅を示した賃金表全体を見直すことが有効です。「この等級に上がれば、この範囲の賃金になる」という幅が示されていれば、新入社員との差が一時的に縮まったとしても、既存社員は自分がこれからどこへ向かえるのかを確認できます。初任給の引上げを、賃金体系全体を点検する機会として活用したいところです。
好業績と賃上げの好循環をつくる
業績が上がり、賃上げができる。社員が自分の貢献を認められたと感じ、さらに力を発揮する。その結果、顧客に提供する価値が高まり、次の賃上げにつながる。こうした好循環を目指すことは、以前「売上が伸びる組織は人事制度が違う」でお伝えした、人事労務と経営戦略を結びつける取り組みそのものです。
ただし、賃上げをすれば自動的に意欲や業績が高まるわけではありません。仕事のやりがい、成長の機会、職場の人間関係、無理なく働ける環境なども、社員の意欲や定着を考えるうえで欠かせない要素です。一方で、仕事にやりがいを感じられる会社であっても、給与への納得感はやはり大切です。やりがいは、給与への不満を埋め合わせるものではありません。
会社の成長と自分の豊かさが結びついていると社員が感じられるようになるには、継続的な賃上げを支えられる収益構造が必要です。ET-OFFICEが掲げる三本柱の視点で整理すると、次のようになります。
| 視点 | 賃上げの好循環に向けた取り組み |
|---|---|
| デザイン戦略 仕事の進め方を見直す | 業務の流れを俯瞰し、成果につながらない作業を減らして、賃上げの原資を生み出す |
| ブランド戦略 強みを伝え、適切な価格を得る | 自社の価値を顧客に伝え、価格競争から抜け出して、賃上げを支える利益を確保する |
| 人事労務戦略 人を育て、成果を公正に配分する | 何ができれば賃金が上がるのかを明確にし、採用と既存社員の処遇に整合性を持たせる |
自社の強みを顧客に伝えて適切な価格を得ること、仕事の進め方を見直すこと、人を育てること、成果を公正に配分すること。これらはばらばらの施策ではなく、一体で考えなければなりません。
まとめ — 最低賃金の改定を、経営を点検する機会に
最低賃金の改定は、自社の賃金水準や賃上げのあり方を確認する機会になります。次の三つの問いを、ぜひ自社に投げかけてみてください。
- 自社の社員の購買力は、保たれているか
- 技能や責任に見合った処遇になっているか
- 社員は、これからの成長が自分の暮らしにつながると感じられているか
生活を守るための対応を土台に、社員が前向きに働ける条件を整え、好業績と賃上げの好循環をつくる。そのことが、結果として会社経営の安定にもつながっていきます。
ET-OFFICE 経営労務デザインでは、賃金水準の点検から、評価・賃金制度の設計、賃上げ原資を生み出す経営計画の見直しまで、三本柱の視点でトータルにサポートします。「賃上げをしたいが原資が心配」「新入社員と既存社員の賃金バランスに悩んでいる」という方も、まずはお気軽にご相談ください。初回相談は無料です。


