「うちも退職金制度を整えたほうがいいのは分かっている。でも、何から考えればいいか分からない」。中小企業の経営者から、こうした相談を受ける機会が増えています。人手不足と賃上げ圧力のなかで、退職金は「あればよい福利厚生」から「採用・定着の競争条件」へと位置づけが変わりつつあります。
一方で、退職金制度の選択肢は中退共・確定拠出年金(企業型DC)・自社運用と多岐にわたり、税務・労務・財務の論点が複雑に絡みます。本記事では、それぞれの特徴を中小企業の視点で整理し、自社に合う制度を選ぶための判断軸を提示します。
なぜ今、中小企業の退職金制度が問われているのか
退職金制度の検討は、長らく「資金に余裕が出てきたら考えること」として後回しにされてきました。しかし、ここ数年で前提条件が大きく変わっています。第一に、賃上げ局面で月例給与だけでは差別化が難しくなり、長期インセンティブとしての退職金・企業年金が再評価されています。第二に、若手社員ほど「長期的な資産形成」への関心が高く、退職金制度の有無が応募判断に影響するようになっています。
厚生労働省「就労条件総合調査」(令和5年)によれば、退職給付制度がある企業の割合は全体で74.9%、従業員30〜99人規模では70.1%にとどまります。逆に言えば、中小企業の約3割は依然として制度がない状態です。一方で、ない3割の経営者の多くが「いつかは整えたい」と考えています。
当事務所では、退職金制度を単独の福利厚生ではなく、人事労務戦略の中核として位置づけて考える視点で考えてみます。経営労務デザインの観点では、退職金は「報酬総額の長期設計」「人材定着のレバー」「事業承継時の負債圧縮」という3つの機能を兼ねる、極めて経営的なテーマです。
3つの主要制度を比較する — 中退共・企業型DC・自社運用
中小企業が現実的に選択できる退職金制度は、大きく3つに整理できます。下表は、それぞれの基本的な特徴を経営判断に必要な観点でまとめたものです。
| 観点 | 中退共(中小企業退職金共済) | 企業型確定拠出年金(企業型DC) | 自社運用(退職一時金) |
|---|---|---|---|
| 運営主体 | 勤労者退職金共済機構(国の制度) | 運営管理機関(金融機関)+資産管理機関 | 自社 |
| 掛金の負担 | 原則 全額事業主負担 | 事業主拠出(マッチング拠出で従業員追加可) | 制度上は事業主の社内引当 |
| 掛金の税務 | 全額損金算入 | 全額損金算入 | 支給時まで損金不算入(社内引当は税務上の損金にならない) |
| 運用リスク | 国が運用(基本給付額は確定) | 従業員本人が運用商品を選択 | 会社が負う |
| ポータビリティ | 転職時に他制度へ通算可 | 個人別資産として持ち運び可 | 退職時に清算(持ち運び不可) |
| 導入の手間 | 比較的少(書類提出中心) | 規約作成・運営管理機関選定が必要 | 退職金規程の整備で開始可 |
| 主なメリット | シンプル・国の助成金活用可 | 従業員の自助努力支援・運用リスクが会社に残らない | 設計自由度が高い |
| 主な留意点 | 掛金変更や減額に制約あり | 投資教育の継続が必要 | 退職給付債務として将来の現金流出が固定化 |
中退共は、従業員数が多くなく事務負担を抑えたい中小企業に適した制度です。国の制度であるため信頼性が高く、新規加入時の掛金助成・月額変更時の助成も用意されています。一方で、いったん加入すると掛金の減額には現状の経営状況を示す資料が必要となり、機動性は高くありません。
企業型DCは、運用リスクを会社が抱え込まない設計が最大の特徴です。退職給付債務がバランスシートに乗り続ける構造を避けたい企業、若手・中堅社員に長期の資産形成機会を提供したい企業に向きます。導入時には規約作成・運営管理機関選定・継続的な投資教育が必要となり、社内に推進担当者を置けるかが分岐点になります。
自社運用(退職一時金)は、退職金規程を整備するだけで開始できる手軽さがある一方、支給時まで損金算入できず、将来の現金流出が経営計画に重くのしかかります。事業承継期や成長投資が続く局面では、自社運用一本での設計は推奨しにくい構造です。
自社に合う制度をどう選ぶか — 4つの判断軸
3制度の優劣を一律に語ることはできません。自社の事業ステージ・人員構成・経営方針によって最適解は変わります。当事務所では、以下の4つの判断軸で整理することをお勧めしています。
| 判断軸 | 確認すべき問い | 制度選択への影響 |
|---|---|---|
| ① 事業ステージ | 成長期か、安定期か、承継期か | 承継期は退職給付債務の見える化が重要 → 企業型DC優位 |
| ② 人員構成 | 若手中心か、中堅・ベテラン中心か | 若手中心 → 企業型DC/ベテラン中心 → 中退共+自社上乗せ |
| ③ 採用戦略 | 新卒・第二新卒の獲得を強化したいか | 強化したい → 企業型DCの説明力が採用広報で機能 |
| ④ 事務体制 | 人事労務の専任担当者がいるか | 専任不在 → 中退共/専任あり → 企業型DC+中退共の併用も可 |
4つの軸を順に当てはめていくと、多くの中小企業は「中退共を土台に置き、必要に応じて企業型DCを上乗せする」または「企業型DCを軸に、過去の中退共加入分を通算する」という二択に収れんしていきます。自社運用のみで設計する選択肢は、特殊な事情がない限り、経営的なリスクが高い設計と言わざるを得ません。
採用・定着の観点では、退職金制度の存在以上に「制度の内容を採用候補者・現役社員に正確に伝えられているか」が重要です。せっかく企業型DCを導入しても、その意義が社内に理解されていなければ、コストだけが残ります。守りの人事から攻めの人事までを連続的に設計する、というET-OFFICEの3つの戦略の発想は、退職金制度の設計と運用にもそのまま当てはまります。
導入を成功させる3つのポイント — 制度設計から運用伴走まで
退職金制度は、導入して規程を整えれば終わり、という性質のものではありません。制度を作って終わりではなく、人事評価・賃金制度・採用方針と連動させて運用し続けてはじめて、本来の効果を発揮します。導入を成功させるためのポイントを3つに整理します。
第一に、退職金規程と就業規則・賃金規程の整合性を確保することです。退職金制度を新設・改定するときは、就業規則の不利益変更に当たらないかを慎重に検討する必要があります。とくに自社運用から中退共・企業型DCへ移行する場合、移行時点での既得権の取り扱い、退職金算定基礎額の連続性、減額となる従業員が出る場合の同意取得手続きが論点になります。
第二に、税務・社会保険上の取り扱いを設計時点で確認することです。掛金の損金算入、退職所得控除の活用、企業型DCにおける社会保険料の取り扱いなど、税理士・社労士・運営管理機関の連携が欠かせません。導入後に税務調査で指摘を受けることがないよう、根拠資料を整備しておく必要があります。
第三に、従業員への継続的な説明機会を設けることです。とくに企業型DCを導入する場合、投資教育は法令上の努力義務でもあります。年に1回以上、運用状況の振り返り・商品ラインナップの説明・ライフプランを踏まえた配分見直しの機会を設けることで、従業員の制度理解と満足度が大きく変わります。
まとめ
- 退職金は「あればよい福利厚生」から、採用・定着・事業承継を左右する経営課題に変わりつつあります。
- 中退共・企業型DC・自社運用にはそれぞれ明確な特徴があり、事業ステージ・人員構成・採用戦略・事務体制の4軸で判断するのが現実的です。
- 多くの中小企業では、中退共を土台に企業型DCを組み合わせる設計が有力な選択肢になります。
- 導入後は、就業規則との整合性確保・税務上の取り扱い・従業員への継続説明という3点を運用に組み込むことが重要です。
- 退職金制度は単独の福利厚生ではなく、人事労務戦略・経営戦略と一体で設計してこそ効果を発揮します。
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